lost in

迷い込んだら

江戸川乱歩の短編小説に「押し絵と旅をする男」という物語がある。地方に蜃気楼を見に行った若者が、帰りの夕暮れの走行列車の中でとある老人と出会う。こ の老人はひどく大事そうに一枚の絵を抱えていて、2人きりの車両の中で主人公の若者にその絵を見せ、不思議な話を始める。老人は、その押し絵(日本の伝統 的な貼り絵のようなモノ)の中の男は失踪した自分の兄であり、絵の中の女性はその恋人なのだと言う。というよりこの女性が絵の中に逃げ込んだので、彼もま た彼女を追いかけ絵の中の入り込み、2人はそして絵の一部になってしまった、そう語るのだ。

老人の話は現実離れしているにもかかわらず、妙なリアリティーがある。彼はこの世にも奇妙な怪奇現象の本物の証人なのか、それとも単なる気違いなの か……。江戸川乱歩が推理小説に偏り過ぎた自分の物書きとしての在り方に強く疑問を感じ、断筆宣言していろいろな場所を旅していた時期に書いた夢とも現実 ともつかぬ幻想的な物語であり、乱歩自身の語るところの彼の最高傑作と言われている。

先日、この「押し絵と旅をする男」を読んだ僕は案の定ヒドク惚れ込んでしまった。宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」、ジョイスの「邂逅」、もしくはカフカの「流 刑地にて」に継ぐ、現実と空想や憶測、なにかゾッとするような未開の異世界が無防備にポッカリ口を開いている、そんな場所にフラっと気づかぬ内に立ち入っ てしまったかのような心地よい不安感、スグにこの感じは小説以外にも感じたことがあると思い立った。たとえば美術作品、美術作品においては、すべては一切 の説明を省き目の前に剥き出される。

Max Ernst(マックス・エルンスト)というシュルレアリスムを代表する画家の作品に、「小夜蝶に二人の子供が脅かされている」という有名な絵がある。い や、絵画であると断言してしまうのは乱暴だ。絵の中に諸々の物体などもコラージュされている。絵とも造形作品ともつきはしないこの作品は、不気味というよ りは、より奇妙と言えそうなある理解の困難な、意識が成立する寸前で一切が凍結してしまったかのような、イメージの着陸寸前の意識を見事に引きずり出す。

画家であれ、小説家であれ、芸術家は時としてナゾをつくりだす。いや、厳密にはほとんど謎と言ってもいいような何物かが、芸術家を通してこちら側の世界に 表出する。これを目の当たりにするとき、人は感性が掌握しきれていない意識の外側にこそ際限なく続いている世界にリーチする。

ある人はどこかに迷い込んでしまったような不安を感じるであろうし、またある人は自分は初めて本当の自分に思い当たったと感じるかもしれない。しかし一切 は瞬間的な出来事であり、たった今何を感じたのか、何を見たのかハッキリとは思い出せない。疑う余地などあり得ない了解事項の数々がアイスクリームの様に ドロりと溶ける、まるで嘘その物のようなこの瞬間を見逃すまいと、意識は日常の万倍のスピードでいよいよ密度を高めるとき、おそらく僕はこれ以上、生きる ことが本格化することはないのである。

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